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まえがき
▶スポーツ医学との出会い
筆者が長い間、スポーツ医学に携わることになったのは、昭和40年代に米国のオレゴン大学留学した折に医学部のスポーツ科学センターを見学したのがきっかけである。当時、米国はベトナム戦争の余波を受けて社会が荒んだ時期でもあり、「街を歩けば肥満体が歩く」ともいわれた時代である。米国連邦政府は国民の健康障害を危惧したため、米国社会にスポーツ科学分野を取り入れ、どんなに小さな町にもスポーツジムが設けられ、社会現象として話題となった。とくに、クーパー教授による有酸素運動のエアロビクスはあまりにも有名である※1。
▶口腔領域からスポーツによる健康増進を考える道へ
米国での経験から、将来は口腔領域からスポーツによる健康増進を考えたいとの夢を膨らませ、帰国後も大学の口腔衛生学(予防歯科学)に所属して研鑽を積むことができた。昭和50年代に歯科診療所を開業し、予防歯科を重んじた診療所を目指した。
▶理想郷の王子ヘルストレーニングクラブ創立へ
昭和55年ごろにスポーツジムを展開することになった。名称は「王子ヘルストレーニングクラブ」で、後に「王子フィットネス&ジム」と改名し、健康増進の場としてのスタートであった。現代においては企業が運営するスポーツジムが氾濫しているが、当時は都市部においても極めて少なかった。
街のスポーツジムの発祥は大阪であったため、大阪の関係者と連携するための協会づくりに奔走した。当時導入したのが、米国のユニバーサルマシンのサーキットトレーニング方法※2で、集団をある一定時間トレーニングしながら筋トレメニューを変えていく方法である。
▶数々の業績を上げる
当時、スポーツに力を入れていた筆者の母校である帝京高校の野球部が夏の甲子園大会で、徳島の池田高校の運動強化を図った“やまびこ打線”に滅多打ちされて惨敗した不甲斐なさを憂い、科学的なトレーニングの必要性を申し出た。当時の東畑秋夫校長と、いまでは甲子園50勝の名監督となった前田三夫監督がわれわれの申し出を快く受け入れてくれた。ただし、条件として「夏の大会までの3ヵ月間でモヤシのような生徒の体力増強を図ること」が申し入れられた。経験のないわれわれにとって、スポーツ医学の体力増強に関する学問のみでは不安があったが、“やるしかない”と必死に取り組んだ。すると、2ヵ月もしないうちに部員の親たちから校
長宛に電話がひっきりなしに入り、「最近、息子の体が変です。一緒に風呂に入ったが、体の変化に驚いた。何をやっているのか」などの声があったという。われわれも驚いたが、発育盛りの年代において効果的な栄養とトレーニングにより、その効果が発揮されたことを確認できた。
その年の夏の大会では、因縁の池田高校との対戦で勝利を収めることができた。そのときの蔦監督の弁、「対戦相手の帝京高校の科学的都市型のスポーツトレーニングに惨敗でした」がニュースで取り上げられた。王子ヘルストレーニングクラブが一躍脚光を浴び、帝京高校野球部はその後、甲子園の常連校になったのである※3,4。
その後も相撲やゴロフ、バレエ等のアスリートを排出できたが、経営状態はいまひとつであった。当時のサラリーマンは高度成長期の真っ只中で多忙であり、アフター5はあるものの上司や仲間との飲み会が重要なコミュニケーションの場となり、健康維持のためのジム通いにはほど遠い時代であり、令和の時代とはまったく違っていた。
▶スポーツクラブの70% 以上が赤字の業界で、厳しさに翻弄される
戦後の日本人の体力作りを支えたのは柔道や剣道などの町道場であったが、高度成長期には少なくなっていた。時代が代わって令和になり、大手を含めて多くの企業が“発汗産業” の代表であるスポーツクラブ業界に参入し、大型店舗や派手なコマーシャルで集客を行っているが、スポーツ社会学からみて如何なものかと感じる。
国民の健康増進の場は、昔の柔道場や剣道場のように地域(街)にあるべきであり、街ジムはプライマリ・ケアとしての位置付けが必要と思われる。日本の歴史からみて公益社団法人日本ボディビル・フィットネス連盟はその礎を担ってきたが、街ジムのあり方は変化しつつある。
▶日本での歴史と実績があるスポーツクラブとしての
公益社団法人日本ボディビル・フィットネス連盟
ひ弱な文学青年であった三島由紀夫を指導し、強靱な意志と身体を作り上げたのは早稲田大学ボディビルクラブ出身の玉利 齋 氏で、後のJBBF(日本ボディビル連盟)会長である。彼は、スポーツ界全体を統括されており、その知恵どころである森 喜朗 氏(元東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長)のもとにいたが、おしくも東京オリンピック・パラリンピックを見ることなく他界された。現在はその意志を継ぎ、東京都ボディビル・フィットネス連盟会長の宮畑 豊氏が活躍している。
特別な薫陶をいただいた私は、生前、事があるごとに玉利 齋 氏の後ろ盾として動いた。時に保守的傾向が強い日本ボディビル・フィットネス連盟が、地域における社会体育の活動拠点である日本体育協会に加盟していないことを憂い、先陣を切ってその打開に努めるという命を受け、早速に東京都北区体育協会に加盟させていただいた。東京都北区では北区体育祭を開催しており、ここ十数年、毎回800から1,000人の参加者を集めている。日本ボディビル・フィットネス連盟では、いまでも王子フィットネス&ジムを模範として各ジムが研鑽を積んでいる。
本書が広くスポーツ医学社会の発展に繫がれば幸いである。
※1 ケネス・H・クーパー (Kenneth H. Cooper)は、アメリカの運動生理学者。
1967年、アメリカ空軍で、「有酸素運動」のプログラムとしてエアロビクスを提唱した。
※2 サーキットトレーニングとは、無酸素運動(筋トレ)と有酸素運動を交互に取り入れたトレーニングメニューのこと。「HIIT(High Intensity Interval Training)」とも呼ばれ、短期間の無酸素運動(筋トレ)で脂肪を燃焼しやすい状態を作り出した後、有酸素運動で一気にカロリーを消費する。
※3 前田三夫:鬼軍曹の歩いた道―帝京一筋。高校野球に捧げた50年.ごま書房新社,東京,2022.
※4 前田三夫:いいところをどんどんのばす―帝京高校・前田流「伸びしろ」の見つけ方・育て方.日本実業出版社,東京,2022.
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奥寺 元(おくでら はじめ)
医学博士
公益社団法人 日本口腔インプラント学会専門医・指導医 元理事
一般社団法人 東京形成歯科研究会理事長
元神奈川歯科大学客員教授、元東京医科歯科大学臨床助教授
国際インプラント学会ICOI 元会長、ISBB 国際血液臨床応用再生医療会議理事長
王子フィットネス& GYM 代表、王子歯科クリニック・美容外科総院長
1971年 神奈川歯科大学卒業、同口腔衛生学予防歯科勤務
1972年 米国オレゴン大学留学
1975年 神奈川歯科大学口腔衛生学予防歯科非常勤講師、城西歯科大学非常勤講師
1975年 王子歯科クリニック開業
1975年 日本大学医学部薬理学教室特別研究生
1980年 王子トレーニングセンター(GYM)開業
1999年 東京都都議会議員選立候補
2002年 ISBB 国際血液臨床応用再生療法会議(指導医)理事長
2004年 東京医科歯科大学歯学部臨床助教授(非常勤)
2005年 神奈川歯科大学人体構造学講座客員教授
2005年 公益社団法人 日本口腔インプラント学会理事
2005年 ICOI(国際インプラント学会)会長、一般社団法人 東京形成歯科研究会理事長
2008年 フィリピン国際歯科大学教授、台湾・台北医科大学客員教授
2009年 北区ボディビル・フィットネス連盟会長
2013年 日本再生医療学会会員
2016年 日本再生医療学会歯科連絡ネットワーク委員
2019年 TOP MEDICAI DR 100に選出
2020年 北区柔道連盟学術経験者役員
2022年 北区体育協会功労賞 現在に至る
本のエッセンスは、書籍の「はじめに」や「刊行にあたって」に詰まっています。
この連載では、編集委員や著者が伝えたいことを端的にお届けするべく、おすすめ本の「はじめに」や「刊行にあたって」、「もくじ」をご紹介します。
今回は、『スポーツにおける医科・歯科の役割 口腔の外傷・障害予防と機能回復』です。