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はじめに
もしも明日、あなたの職場がなくなってしまうとしたら、あなたは何を感じるだろうか?
平成16(2004)年10月20日。その日は突然やってきた。
私は朝6時のNHKニュースを、関西国際空港近くのホテルで見ていた。その日は、医院の目標達成のご褒美で、スタッフと海外旅行に行く予定だった。映像は、台風23号による増水で舞鶴市の由良川があふれ、大型観光バスが水没し、乗客ら37名がバスの屋根で恐怖の一夜を過ごした様子を映し出していた。
そのあと、映像は舞鶴市内の洪水被害に変わった。
私の開業している町内だ。
ご近所の方々が、押し寄せた大量の泥水を呆然と見つめている姿が映し出された。私はまるで夢を見ているような、どこか他人事の感覚でニュース映像を見ていた。30分後にはホテルをチェックアウトし搭乗手続きとなるのだが……。
脳の感情を司る部分がブロックされたような不思議な感覚のなか、私はまず、旅行を楽しみにしているスタッフ達に連絡をした。幸い、スタッフの自宅や家族の無事を確認できた。スタッフ達に事情を話し、「私は旅行に行けないが、皆は楽しんできてほしい」と伝えた。
スタッフに別れを告げ、私はタクシーに飛び乗った。
移動中、携帯電話に知り合いからの安否確認が続く。皆、私が被災地にいると思って連絡をくれるのだ。いつの間にか携帯電話の充電も切れ、タクシーのラジオニュースだけが情報源となった。
停電や床上・床下浸水の情報、行方不明者の情報。ラジオニュースは何度も情報を発信し続けた。
そのときだ。体が急に震えだした。感情のブロックが解除され、現実を脳が受け止め始めたのだ。
「強制終了になったかもしれない」。突然、そう思った。
今まで、すべてを注ぎ込んで育ててきたクリニックが、終了してしまうかもしれない……。
つい先ほど空港で見送ったスタッフたちとも、もう一緒に働けないかもしれない……。
思い出されるのは、感情のコントロールができず、ついついスタッフに当たってしまった自分。強権的にスタッフをコントロールしようとしていた自分。
なぜもっと優しく大人な院長になれなかったのだろう。そしてこんな院長に、皆、よくぞついてきてくれたものだ。
舞鶴に近づくに従い、泥の臭いが広がり、パトカーや救急車のサイレンの音が聞こえてきた。そして救助や取材のためであろうヘリコプターの爆音がさらにノスタルジーと懺悔の気持ちを交錯させた。
クリニックに到着した。待合室や診療室に容赦なく泥水が入り込んでいた。状況は全面床上浸水という悲惨なものだった。しかし、強制終了という最悪の状態ではなさそうだ。
そのとき、私の内から出てきた感情は「今いるスタッフと10年後も笑顔で働いていたい!」という強烈な思いだった。
あれから20年。今では女性スタッフの出産後復職率100%の職場が実現した。それぞれが何度か産休・育休を取りながらも、必ずここに戻ってきてくれる。もはや、出産、育児、そして介護は退職理由にはならない。
もちろん、女性スタッフがライフワークバランスを取りながら働ける環境をつくっていくことは、たやすいことではなかった。しかし、壁にぶち当たるたびに、平成16(2004)年10月20日を思い出す。私の再生ポイントだ。
「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」とはよく言われる言葉だが、まさにあのときの出来事や出てきた感情は、大きなチャンスとなった。
今、歯科医院の求人は壊滅的な状態だ。歯科衛生士はもちろん、資格のないスタッフですら見学にも来ない。そんななかで私が経営する森歯科クリニックは、歯科衛生士が16名おり、歯科助手、受付スタッフを含めると40名ほどのスタッフが元気に活躍してくれている。出産後復職組が医院の屋台骨を支えてくれ、安心して子育てしながら働ける環境が、ライフプランにおいて子育てしながら仕事をしたいと考える人を呼び、よい循環となっている。
間違ってほしくないのだが、人が辞めない組織が“スタッフ自立型歯科医院”とイコールではない。時代の流れとともに歯科医院にも変化が求められている。古参スタッフが変化の壁になることもある。森歯科クリニックもデジタル化導入で大きな決断を求められた。
これから働き方改革、デジタル化に挑戦していく歯科医院にとって、起こりうる問題を知っておくことは、リスク管理の観点で大切なことだ。本書では恥を忍んで、そういう経験も紹介している。
偉そうなことを述べてきたが、「働き方改革」「デジタル化」において、森は何もしていない。幹部スタッフに任せきりで、予算が必要な部分のみ可否を判断した。
本書でも、その部分の実際は、幹部スタッフとしての当事者であった吉岡沙樹が生の声を届ける。
吉岡は現在、医)光歯会 森歯科クリニックのCOO(最高執行責任者)だが、人気セミナー講師という別の顔ももっている。とくに『メンテ月間1300人 スタッフの行動変容』といったテーマのセミナーでは、デンタルショーや企業企画セミナーで7回連続“満席、立ち見、入場制限がかかる”という人気ぶりだ。
セミナー後、森のところには2つの質問が集中する。
「吉岡をどうやって育てたのか」
「歯科衛生士がなぜそんなにたくさんいるのか」
実は、本書はその回答書の役割も併せもつ。
ぜひ、スタッフ主導での「働き方改革」「メインテナンス中心医院」「デジタル化」への手順書として、そして、医院の幹部スタッフの育成書として、本書を活用してほしい。
本書の使い方だが、もし、あなたが指示待ちばかりのスタッフで悩んでいる院長先生であれば、ぜひ1章から読み進めてほしい。何かの気づきがあるはずだ。スタッフとの関係は良好で、よりステップアップしたい院長先生は2章から読み進めてもらって問題ない。2章ではより実践的な内容を紹介している。
最後に、あなたにもう一度問う。深呼吸してイメージしてほしい。
「もしも明日、あなたの職場がなくなってしまうとしたら、あなたは何を感じるだろうか?」
そして、奇跡的に職場が復帰できた10年後を、イメージしてほしい。
もし、私と同じように「今いるスタッフと10年後も働いていたい」「今いるスタッフと一緒に成長していきたい」と思うなら、私たちの体験が、少しはお役に立てるかもしれない。
森 昭
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著者プロフィール:
吉岡 沙樹(よしおか さき)
株式会社conpath. 代表 歯科衛生士
医療法人社団光歯会 COO
MDE(メディカル&デンタルエステ)協会 会長
自立型予防歯科を目指すClimbingCamp(クラキャン)キャプテン
3歳児健診でネグレクトを疑われるほどのランパント・カリエスを患い、歯科医師泣かせの歯医者嫌いだった。しかし、1人の歯科衛生士の存在で歯科医院が大好きになる。母子家庭のため“高卒後就職”の既定路線にすすみかけるが、歯科衛生士になる夢を多くの人が応援してくれ路線変更。アルバイトと奨学金で歯科衛生士学校卒業。2013年、竹屋町森歯科クリニックに入社。スタッフの出産ラッシュのなか、2015 年、全スタッフ中最年少での幹部に任命される。9 か月間でメンテ患者数を600人から1100人に増加させ、全国から注目を集める。2017年、結婚転出のため退職後はフリーランスとして活動。2023 年、株式会社conpath. 設立。大好きな歯科業界が、もっともっと働きやすい環境になるための、情報発信や、医院サポートで活躍中。現在は歯科衛生士としての仕事と並行し、関西を中心にメンテナンス増患セミナー開催。
【講演】
●2023 日本国際歯科大会 ●歯科医療標準化機構 ●WTS
●女性が輝くクリニックづくりセミナー
●中部デンタルショー 九州デンタルショー 生涯研修 ●公衆衛生研究会(ネコの会)
●企業健康保険組合
【執筆】
●『一問三答のスタッフ教育』(デンタルダイヤモンド社)回答者
監修者プロフィール:
歯科医 森 昭(もり あきら)
医療法人社団光歯会 理事長
オーラルコンディショニング協会 会長
最高の職場づくり実践会代表
自立型予防歯科を目指すClimbingCamp(クラキャン)隊長
京都府舞鶴市生まれ。1988年、大阪歯科大学を卒業し、1995年に竹屋町森歯科クリニック(現 医療法人社団光歯会 森歯科クリニック)開業。現在は、医)光歯会理事長 森歯科クリニック(京都府舞鶴市)となり、人口8万人の同市にて総世帯数の25%がクライアントという人気歯科医になる。2004年、台風による床上浸水被害でクリニックが被災し、「今いるスタッフと10年後も一緒に働いていたい」という強烈な思いから、ママスタッフに優しい職場環境づくりに取り組む。
現在、女性スタッフの出産後復職率は100%。子育てしながら働きやすい仕組みづくりは、歯科業界だけでなく、他業種のモデルケースにもなり注目を集める。現在、チームビルディングやスタッフマネジメントの情報発信も行っている。
【著書】
『指示待ちスタッフが変わる仕組み』(現代書林)
『上司のあなたが頑張って働いても部下はなぜついてこないのか?』(現代書林)
『行列のできる歯科医院3』(デンタルダイヤモンド社)
『行列のできる歯科医院6 繁盛のヒミツ』(デンタルダイヤモンド社)
『歯科医院で実践 スタッフ教育マネジメント』(デンタルダイヤモンド社)
『一問三答のスタッフ教育』(デンタルダイヤモンド社)
『夢を叶える歯科医師たち』(第一歯科出版)
本のエッセンスは、書籍の「はじめに」や「刊行にあたって」に詰まっています。
この連載では、編集委員や著者が伝えたいことを端的にお届けするべく、おすすめ本の「はじめに」や「刊行にあたって」、「もくじ」をご紹介します。
今回は、『めざせ増患!脱・俺様院長! 自立型スタッフ育成プロジェクト』です。